昭和42年8月6日 夜の御理解
一心の信心といわれます。芯というたら草木も一つじゃと仰る。この方一心と定めいと、又一心不乱というようなことも申します。例えば拍手して神前に向かったら、例え後ろから矢先で突かれるようなことがあっても、振り向いてはならんぞと、物事を聞くようでは、神に一心は届かぬというような厳しい御教えがございますですね。
そういうようなものが最近やはり薄らいできたという感じが致しますですね。やはり生き生きとしたおかげ頂くためには、そこの所を例えば、よしその事が人に笑われても、神様から笑われたくないという信心がなさらなければなりません。一心のあまりに人からちょっと変わっておるとか非難があったり致しますけれども、神様から笑われてならん。信心は問題は人間に対するものでは、ないのですから。神様に対するのですから。それには人間からも笑われんごつ、神様からも笑われんごつとは出来ません。そこん所を私は頂いていく一つの毅然としたものが必要であるということ。
同時に私は口を開けば申しております。本気で限りなく美しくなりましょうや。美しくなろうと、ね。ためには、改まりもしなければならん。磨きもしなければ美しくならないのだ。美しくなりましょうやと。物の見方、考え方でも、やはり自分はこんなつまらない事を考えおるという風に、そういう物をとっちめたら、そういう風にその事に向かって遭遇す私は一心が必要だとね。生き方、神様をここに生き生きと現していくためには、どうでもそこのところを本気で焦点をおかなければいけない。
只今申しましたようなことを、次のお話から感じて頂きたい。受け取って頂きたいと思うのです。
今日午前中の奉仕の時に、久留米の佐田さんが御礼に出て見えました。今晩ご主人も来ておられますから、ご主人の前ですけれど、そのままのお話ですので聞いてもらいます。
昨日、ご承知のように日田の方で酒屋をしておられましたから、その時分の売掛金なんか残っておるわけです。そこでその集金にいかれたのです。一軒一軒のその集金ぶりを聞かせて頂いてから、そこに信心が躍動しておるなあーと言うことを感じたのです。例えばその先方の方が、例えば払わない気でおっり、又はぐずぐずしているその事に対する冷静な信心を持って言うておられること。そして納得させておられること。感心いたしましたが、その事とは別として一軒こういうところがあったのです。
そこは創価学会だそうです。だから前にそこに集金にいった時は、一生懸命ご祈念中だった、御祈念をしておられた。ところが創価学会はもう仏前に向かったら最後、誰が来てが誰が何といおうがご祈念を終わるまでは絶対振り向いてはならんという厳しい、それがあるらしい。私は生きたものをもっている人は違うと思いました。私は創価学をよい悪いじゃないち思った。金光教の信心にもそれが本当はあらなければいけなんのです。又あるのです。例えばご祈念をしていた。もう後ろから誰か声をかけられた。ちと御無礼しますと立ってから用を済ますと、又ご祈念する。ご祈念しながら例えばその探しもんでもしよると、あ、あれは、あそこの引き出しにあるよというような事になりかねない。如何にいくら神様に向かったといっても、一心が届くはずがない。ですからもう絶対ご祈念の終わるまで立たないつもりですから、今度も丁度ご祈念中だったらしい。静かに入ってから、ご祈念が済むまで待たして頂いたと言われるのです。
そして集金にきたことを告げられるとです、本日は本当に相すみません。お宅にお支払いをするためにこうして用意しておりましたところが、先日から主人が亡くなりましてから、それを使ってならんと思いましたけれども、使うてしもうて、お葬式に使ってしまいましてから申し訳ないですけれども、もう暫らく待って下さい。同時に初盆もしなければならない事ですから盆に来て下さいと言うても嘘になるから、どうぞ暫らく待って下さいと言うことであった。そこで佐田さん、そうですか、そんならこの次ぎに来た時に寄りましょうと言って帰られた。
その事を逐一、お父さんに報告した、時に佐田さんが言われたことがですね、恵美子、お前はどうしてそのまま仏様にお供えすると言わじゃったかと言われた。もう先生私は、もう本当に主人を見なおし、惚れ直しましたと今日言われました。酒の売りかけ代金、何べんも何べんも歩かせて、取れないところなんです。けれども払うために、こうしてあったけれども、主人が亡くなったときに使うた。盆にと思いますが、盆も初盆でお金が要りますから、もう暫らく待って下さいと、こう言われた事を聞いて、そのお父さんがそう言う、どうして仏様にお供えしますとなし言わじゃったかと。横からおばあちゃんも、ほんに美恵子さん、それはもう供えしてしまいなさいとこういう、もう私は本当に有難いやら、良い親を持っておる。良い主人を持っておると本当に感激しましたと、て言われるんです。もうそれで善は急げ早速、向こうに電話かけてそのことを言いましょうと言って電話をかけさせてもらいました。そしたら向こうの方が、その事を言うたら、嗚咽してですね、もう泣いておられれる事が分かる。もうそげなことじゃすみません。そんなことは出来ませんといって喜ばれたという事を聞かせて頂いてですね。 その話の中から、皆さん、本当に日頃信心を現していくという事は、そういう事ではないかと思うのですね。日頃、頂いている信心をです、ね、ここに本当に一家が、言わば信心を勢を揃えておらねばならぬ。本当に限りなく美しくならせて頂きましょうと言うことにですね、お互いが精進しおうておらなければ出来ることではございません。
一人でもどうでしょう、そげんまでする事はいるもんね、又待ってから取りにいけばよかもんと、言うておったら、それきり。それお父さん、あなたそげん言いなさるけれど折角向こうが待てば払うと言いなさるけん、そげんあげてしまうこともなかでしょうもんと言うてしまえば、それまで。それを聞かせて頂いてから、良い主人を持っている、良い母親を持っておることをありがたいと思うた。自分の心の中にもそれが一緒にあったと言うことなのです。
そういう風にですね、一時か万事、生活の中に信心が現されていくという事。限りなく美しくならしていただく稽古をお互いさせて頂いているのですからね。お互い、と言うような事を私はお話の中からまあ、有難いなあ、と私がほんなこて、神様に代わって御礼を言いごたあると言うたことでございます。
ね、同時に向こう先方の方は、創価学会ということでございますけれども、創価学会の信心がどうのこうのと言うのではございませんけれども、もう仏前に向かったら、誰が来ても何と言ってきても振り向きもしないというところに、どうせ集金であるじゃけんで、わざと拝んどけといったのではないと思うのです。確かに創価学会にシャント一つ貫いたものがあるようです。ならお道の信心にも、それがあらなければならんのです。神前に向かったら、例え後ろから槍先で突かれるようなことがあっても振り向いてはならんと仰る。まあだ人声や物音を聞くようでは神に一心は届かんというような厳しい信心を教えておられるのであります。そういう所をです、私どもが人から笑われても、あの人に気の毒な、そんな事っちゃないです。神様に向かったら最後、人が笑おうが、そしろうが神様から笑われてはならんと言う信心が、ちゃんとこう筋金が通った信心。そういう話の中から、私はあれ、これ佐田さんの事から、又創価学会の方の話から、私はそういうものを感じたのです。そうでなければならんと私は思った。同時に佐田さん一家においても、信心させて頂く者は、そうでなければならんとこう思うた。
限りなく美しくならせて頂く稽古をさせて頂いておる私達、一心と神様に打ち向けて信心させて頂いておるのでございますから、その一心が人間心で乱される様な事があっては、神に一心は届きません。そのくらいの信心をですね、毅然とした信心をさせてもらわなならんと思いますね。どうぞ。